戦後ではない戦後生まれの50年
泉 麻人 (朝井泉)

「五十の賀」にちなんで、この五十年の時代を大まかに振り返ってみようと思う。
まずは1956年。この年の経済白書に記された「もはや戦後ではない」というフレーズが"時の言葉"として話題になった。つまりわれわれは、戦争のニオイが消えた戦後に生まれた第一世代――ということになるわけだ。もっとも闇市の面影を残すようなバラック建てのマーケットなどは、繁華街の各所にまだ残っていたものの、石原慎太郎が「太陽の季節」で颯爽とデビュー、その後の湘南族のハシリともいえる「太陽族」なんて風俗も発生し、プレスリーの登場とともにロカビリーブームに火が付いた。新時代の幕明けを感じさせる出来事が数々と記録されている。ちなみに先の「もはや戦後・・・」とともに、評論家の大宅壮一が語った「一億総白痴化」のフレーズが流行語となった。普及しはじめたテレビ文化を指しての苦言だが、これにもとづけばわれわれは、「総白痴化した時代の第一世代」ともいえる。
 と、書いてきたものの、ここまでは生まれた年の話だから、記憶にあるわけでない。あとは"十年刻み"で辿っていこう。
 1966年。美酒会員の多くは小学四年生になっているはずだ。この年の正月から「ウルトラQ」続いて「ウルトラマン」がスタートし、怪獣ブームが本格化する。前年の年末に封切られた「怪獣大戦争」(ゴジラがシェーをする)の併映作が「エレキの若大将」だったことから加山雄三にハマった・・と言う人も多いだろう。そんな映画の幕間に流れるニュース映画で「ビートルズ来日!」のニュースを観たおぼえがある。ビートルズと前年あたりからのエレキブームが発展する格好で、GS(グループサウンズ)がそろそろブームの予兆を見せはじめる。同時にお笑いブームが巻き起こり、テレビの番組表はカタカナ書きのGSとトリオ・ザ・パンチ,てんぷくトリオ・・・といったお笑いトリオやコンビの名で埋めつくされるようになった。翌年あたりから学生運動や国鉄の順法闘争も激しくなって、僕らはストで学校が休みになるのがうれしかった・・・。
 書いているとキリがないので、1976年に飛ぼう。社会事件としては「ロッキード事件」が話題をさらった年。大学のサークル宴会でも、証人喚問における楢崎弥之助(社会党)や若狭得治(全日空)・・・のモノマネをする男がいた。アイドル界は山口百恵とキャンディーズ、そして夏にデビューしたピンクレディーがあっという間に頂点へ上りつめる。が、わが慶應キャンパスで圧倒的に人気があったのは、エメロンシャンプーのCMでブラウン管に現れたハワイの美人モデル・アグネス・ラム嬢であった・・・・。そう、雑誌「ポパイ」が創刊されて、日吉キャンパスにはコーデュロイパンツにレインボーサンダル履いた"陸サーファー"が溢れていた。新島にいくとヤレル・・・という妙な噂も流れていた。
 1986年、三十の年。僕はこの頃"新人類"などと呼ばれ、トレンドをネタにしたコラムを連載していた。当時の文章を読み直すと、年頭にスペースシャトルが空中爆発、同じ日に松島トモ子がケニアでライオンに噛まれ、ファミコンのスーパーマリオが大流行、春には岡田有希子がビルから飛び降りて、晩年のソ連ではチェルノブイリ原発が爆発、西麻布のアイスクリーム屋・ホブソンズには長蛇の行列が生じ、マハラジャの御立ち台に"初期のボディコンギャル"が出現する。まさにバブルが盛りに入った頃・・・・。
 そして十年前の1996年、われわれは惑いながらも不惑の年代を迎えた。前年に阪神大震災とオウム事件があって、不況に加えて巷の空気は閉塞感が漂っていたものの、IT産業が芽吹きはじめ、自動改札とケータイを手にした人々が往きかう駅の光景が日常化した。とはいえ当時の街頭映像などを眺めれば、無骨なケータイやもはや過去の遺物となったポケベルの姿に違和感をおぼえることだろう。
 2006年、50歳。まとめに何か気のきいた故事成句の類いでも使おう・・・と辞書を調べていたら、こんなのがあった。
「五十煙草に百酒。」
 五十まで煙草を吸い、百まで酒を飲む・・・奔放な人生を表すような言葉かと思ったら、まるで逆だった。「五十歳になるまで煙草を吸わず、百歳になるまで酒を飲まない。一生禁酒禁煙すること。」
 最も当会にふさわしくない文句を見つけてしまった。ま、今宵は血糖やGPTの数値のことなど忘れて、先の"誤訳"の方にあやかって大いに飲もうではないかーーー。